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審査員の目にとまったのは、大正八年からの栽培歴を示した稀少データ。飯田は「専業農家ならば、どんぶり勘定は駄目。生産コストをはじき出す作業日誌、経営記録が必要」が持論で、ほだ場の造成記録や出納帳などを先代から引き継ぎ整理していた。当時の中伊豆シイタケは全国の品評会でも上位を独占。町椎茸生産組合長だった飯田らの指導が実り、若手生産者が意欲を高めていたことも評価された。 表彰式は十一月二十三日。その前日、皇太子夫妻を招いて説明会が催された。飯田の持ち時間はわずか十分。緊張を忘れ、栽培技術の説明に夢中になった。「リスの食害に悩まされていた時代だった。その問題をすばり質問された皇太子さまに感心した」と懐かしむ。会談後、「話せるものならもっとたくさん説明したかった」とポツリと漏らした飯田の顔を文子は今でも忘れない。 受賞をきっかけに組合活動は一層盛んになった。組合員はそろいの特製ジャンパーを着込んで品評会に出向き、全国でも珍しい組合歌を作った。飯田の栽培場には各地の生産者組合が大型バスで視察に訪れた。飯田自身も依頼を受けて講演に奔走し、栽培法を示した農業機関誌や出版物も数多く刊行した。飯田は「天皇杯を受賞すると、見学者が殺到する。相手をしてやれるか、と審査員に事前に念を押されたが、予想以上だった」と苦笑いする。 飯田は田方郡椎茸生産組合連合会長、県椎茸生産組合連合会理事などを歴任。観光開発を狙う大手資本の山林買収が激しくなると、原木が不足する。その解消のため、公有林立木の組合払い下げにも尽力した。生産者主導の共販体制づくり、直火式乾燥機を使った油臭シイタケの追放運動にも精力的に動いた。 息子に経営を譲った今も、昭和三十七年からの降雨量の記録を欠かさない。飯田には「農業の世界では、独自に編みだした技術やデータを外に公表しない風潮があるが、いい情報はみんなに伝えたい」という理念がある。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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