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高度成長期に入り、三島にも宅地造成の波が押し寄せる。富永は「手を打つのは今しかない」と一気に土地を集積し、二千平方メートルのハウスを増設した。「若さに任せて正解だった。自分にもできるんだと自信につながった」と振り返る。 富永は「もともと農業は嫌い。獣医志望だった」と明かす。稲作農家だった父親の反対を押し切って畜産科に進む。田農では、創校以来初めて鈴木梅太郎賞に入選するなど、家畜衛生の研究に熱中した。 ところが、三年に進級した直後、父親が交通事故で首を骨折し入院。下校途中に病室に立ち寄り、翌日の作業の段取りを聞いて近所の農家に伝達する毎日がしばらく続いた。二学期になって、担当医から「父親の手足は再起不能になるかもしれない」と告げられ、「夢もあるだろうが、実家を継ぐように」と諭された。 トマト専業経営の地歩を固めた富永は昭和四十八年、JA施設園芸部会青年部として若手の先頭に立ち、国の補助で市内五カ所に共同育苗ハウスを建設し、市場の信頼を高めるのに一役買った。平成元年には、隔離ベッド方式の採用で年十作の周年栽培を可能にした。経営士会長時代はニューファーマー研修制度を確立し、「利潤追求の米国型農業では生き残れなくなった。地元で生まれた作物が活用されなければ」と地域に根差した若手農業者の育成に力を入れた。 函南町の仁科俊保(昭41卒)白井静夫(昭42卒)加藤節夫(昭41卒)らは昭和四十三年、函南トマト組合の前身とも言える「函青会」を立ち上げた。仁科が初代会長を務め、会員十三人の全員が田農生だった。品質重視を徹底し、土耕式栽培にこだわり続けた。三島トマト組合と合併し組織がなくなった今も、首都圏の市場では「函青会のトマト」で名が通る。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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