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トマト(下)

収穫安定へ「水耕」選ぶ 


水耕栽培によるトマト狩り園を営む河崎さん=三島市
 トマトの水耕栽培が飛躍的に拡大したのは、昭和六十年のつくば万博で「ハイポニカ」が注目されてからだ。コンピューターによる養液循環や温度管理によって、植物の成長に適した環境を保ち、省力化や連作障害の減少が進んだ。今では田方平野での栽培面積の六割を超え、地下足袋を履いて土にまみれる姿をあまり見かけなくなった。

 「いくら豊作に恵まれ、品質の良いトマトを作っても市場原理で値段が決まってしまうのは悔しい」。“豊作貧乏”に疑問を感じた河崎和典(昭45卒)は平成八年、三島市塚原の国道1号沿いに「箱根フルーティトマト狩園」を開いた。ハイポニカを導入し、高さ二メートルに張ったネットに放任栽培する。光が効率よく当たるため、高糖度に育つ。「スーパー並みの値段で味は格別」が河崎のスタンス。商売人としてはまだ半人前だが「目の前でもぎ取って食べる姿を見ると、生産者としてやっぱりうれしい」と笑みがこぼれる。

 三島市の青野宏次(昭31卒)と広瀬和正(昭43卒)は全国ハイポニカ研究会の顧問、東海理事をそれぞれ務める。昭和五十四年ごろから相次いで水耕栽培を導入し、先駆者の役割を果たした。二人は七年前に、三島函南ハイポニカ研究会を設立。若手をまとめ、技術向上に意を尽くす。

 広瀬は土耕式栽培に取り組んだ経験がない。農協の技術指導員時代に水耕技術を知り、「これなら一本立ちできる」と自信を深めて退職した。「勘や経験に頼ることが少なく、安定収穫が保証される」と広瀬。水耕栽培にはUターン就農者が多い。

 JA伊豆の国理事、同果菜組合長など兼務する韮山町の鈴木幸雄(昭37卒)は平成五年からミニトマトに絞った水耕栽培に取り組む。十人のパートで支える六千平方メートルのハウスはミニトマトで県下一の規模。年間四十万パックを出荷し、「八桁(けた)農業」は揺るぎない。

 鈴木は米、キュウリ、ナスなどの複合経営から、(1)輸入されにくい(2)生育をシステム化できる(3)大資本にのみ込まれない―の三点を視野に入れ、野菜専作への転向を図った。

 昭和五十四年には、県農協青壮年連盟委員長に就任。副委員長時代を含め三年間、米価の値上げ運動、牛肉・オレンジの輸入自由化阻止運動に燃えた。「あのころが一番農業らしい時代だった。米をよりどころに全国の農家が心を一つにした」。国会議事堂前に泊まり込んだ十日間は、今も鮮明に覚えている。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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