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長年の懸案だった。激しい産地間競争を生き抜くために合併は不可欠だが、「絶対にくっつかない」と意地の張り合いが続き、いつしか立ち消えになっていた。 展開し始めたのは平成八年。西浦出荷組合長だった真野が中心となり、古くなった選果機の買い替え事業に着手してからだ。導入を目指す選果機は、糖度と酸度を光センサーで分析する最新鋭機。投資は十億円近くに上り、行政側が「未来の産地を育てる事業でなければ補助はできない」と難色を示したためだ。 「対立している時代じゃない。産地を強化しないと全国で勝負できない」。内浦の組合長だった関一雄(昭31卒)とトップ同士の合意を取り付けた真野は両地区の会合に足を運び、何度も合併の必要性を説いた。「だれもが納得できる選果機が入れば、絶対に両者とも不利にならない」と強気の姿勢を貫き、行政側にも「必ず合併する」と断言し続けた。内浦と歩調を合わせて、選果機の研究を兼ね全国視察を繰り返した。 真野は、県経済連柑橘部柑橘委員長を四期四年務めた。任期中は静岡が生んだ「青島温州」の記念碑を駿府公園に建立。全国柑橘研究大会を県内で開催し、全国から二千人の生産者を集めた。地元組合長時代の平成六年には、史上最高の年間売上高二十四億九千万円を記録。「一番いい時代にやらせてもらった」と照れ笑いする。 西浦柑橘出荷組合の発足は、高度経済成長の入り口に差し掛かった昭和三十九年。渡辺進(昭12卒)が販売常務と共同選果場長を兼務し、生産部長の海瀬幸一郎(昭11卒、故人)とともに九つの集落を一本化した。渡辺は「オートメーション化の共同出荷体制で、市場性を高めることが必要だった」と振り返る。 内浦出荷組合最後の組合長は原重晴(昭31卒)。歴代には原宏(昭16卒)原由美(昭6卒)らがいる。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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