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エリンギとの出合いは六年前。出入り業者を通じて台湾で広まり始めた菌床ブロックを手に入れた。増島は「歯触りと癖のない味に一目ぼれ。栽培が確立すれば必ず売れる」と確信した。ヒラタケやブナシメジの栽培に取り組んで十五年目を迎えようとしていたが、「いくら品質で勝負しても、特産地を相手に市場の力関係は覆せなかった」。市場の八○%を占める長野勢に「負けたくない」。その一心で栽培に乗り出した。 全国に指導者を求めたが、技術確立に成功した生産者は見当たらない。長谷川健一(昭44卒)らキノコ生産者仲間に呼び掛け、互いに情報交換しながら試作を始めた。 菌床ブロックは、培養土入りビニールに種を打っただけの栽培方法のため、システム化・省力化できる瓶栽培への切り替えを図った。培養の湿度や温度、木くずの選定、水分量や栄養量など何百種類と条件を変えて、適切な条件を探し出した。「成長段階で全滅したことが何度もあった」と増島。成果を収めるまでに二年を費やした。 アワビのように真っ白な石突きから「白アワビダケ」と名付け、首都圏の量販店にPRに押し掛けた。作れば作るだけ売れた。増島は「競争相手がだれもいない中、高値安定が続いた。まさに起死回生の心境だった」と振り返る。 田農相撲部では、チームの流れを左右する先鋒役で東海大会に出場した。卒業後、三島市内の食品工場の三交代を五年勤め、米国で一年間の放浪生活を送った。「自分に何ができるかをずっと考えていた」。帰国後、長距離トラック運転手やとび職などを転々とし、父親の死をきっかけに三十三歳で農家を継いだ。 現在は八人のパートを雇い、年間三千パック、百トンを京浜市場中心に出荷する。大手メーカーの台頭も目立つが、増島は「勝算はある」ときっぱり。トウモロコシのしんを砕いたコーンコブを培養地に使えば、収量の増加と栽培期間の短縮につながるが、「遺伝子組み換えの問題がある」とあえて使わない。自然食品の時代をにらむ。 趣味の俳句は六年前から。「深田掻(か)く 我が麦飯の向ふ脛(すね)」。自らの農業人生と重ね合わせ、たくましい農民の在り方を表す。「自分は誇りを持って農業者だと言える」。自信にあふれた笑顔で言い切った。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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