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上田は養鶏家の二男に生まれた。ブラジルに渡ったのは昭和三十年。養鶏家の二、三男に対して「技術指導者として海外に移民してはどうか」との打診が各地で頻繁に行われていた。田農卒後、ヒヨコの雌雄を判別する機械鑑別士として働いていた上田にも、米国人の貿易商から声が掛かった。 ブラジルには日本の大卒平均給与の四倍という好待遇で招かれ、護身用の銃を所持しながら現地労働者に養鶏の基礎を伝えた。上田は「日本にいたままでは経験できないことばかり。不自由や恋しさはなかった」と振り返る。三カ月で言葉を覚え、車を運転できたことから、ブラジルを訪れる日系企業の重役の接待役としても重宝がられた。 数年後、戦後の日系人移住者の一部から共に集団地づくりに参加するよう請われ、意気投合した。イボチ市は計画移住地外だったから日本政府の援助は得られず、「指導者時代に培った人脈が思わぬ所で生きた」。組合で購入した農地は約百三十ヘクタール。温帯気候に適した桃やナシなど二十種以上を試作したがうまくいかず、周辺国のパラグアイやアルゼンチンを飛び回ってブドウ栽培に絞った。 日本語に飢えていた上田の楽しみは日本から毎月取り寄せていた農業雑誌。「暗記するまで読み込んだ」。同時に、日本人会のリーダーとして相撲大会や日本語の勉強会を企画した。 日本の酒造会社が同州にワイナリーを建設する際、農場の選定から苗の輸入までを手伝うなど、ブラジル進出を企てる日系企業のアドバイザー的な役割を依頼されることも多い。 昨年、同州と滋賀県の姉妹都市交流が二十周年を迎え、県知事を招いた記念式典を感慨深く見守った。「経済ベースを分離しての付き合いは心が通じ合う」。遠征中の清水商サッカー部と現地アマチームとの練習試合を何度か設定、準備した。数年前、上田が振る舞ったみそ汁をすする選手の輪の中には、現横浜マリノスの川口能活らもいた。 現在は妻と二人暮らし。六人の子供が巣立ち、三女は現地の大学で日本語の講師を務める。「日本人としての誇りは持ち続けている」と上田。「勤勉さがなくなった」と日本の現状を憂うひとみの奥には、母国への愛着がにじむ。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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