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校歌・応援歌

連帯感深めた歌唱指導


当時の資料を広げる応援歌を作詞した土屋さん=田方農業高
五番まである校歌を完全に暗唱できる在校生は応援団や吹奏楽部などごく一部に限られている。生徒らの間でも入学式や卒業式には三、四番を抜いて歌うのが”暗黙の了解”になっているからだ。校歌制定当時の教諭だった斉藤長徳(昭5卒)は「あまりにも長い曲なので、作詞家から学校側に注文があったようだ」と記憶をたどり、同窓会長梅原正義(昭16卒)は「一、二、五番には校訓でもある誠実・勤勉・自治のキーワードがちりばめられているから」と”圧縮”に思いをめぐらせる。

現在の校歌は創立五十周年を翌年に控えた昭和二十六年に作られた。校長戸塚静(故人)が三島南高校長だった歌人穂積忠(故人)と韮中の同窓の縁で、作詞を依頼した。「振り仮名がないと読めない」と生徒が口にするほど難解な古語が多く、数年間は国語教諭が歌詞の解説を加え、農学生としての心得を体に染み込ませた。

旧校歌は昭和二年の制定。オルガンの弾ける三年生の間で校歌待望の機運が高まり、当時の教頭多田実(故人)の詩に合わせて自分たちで楽譜を起こしていった。「どこかの有名な寮歌に似せたようだ。テレビで同じ節を聞くことがある」というOBも多いが、はっきりしない。元修善寺町長の三須忠衛(昭10卒)は「放課後、先輩の呼び掛けで運動場わきの桜並木の下に集められ、一列に並んで大声で歌わされた。一年は五十人しかいないから、ずる休みはすぐにばれた」と思い返す。放課後の歌唱指導の伝統は新校歌が誕生した後もしばらく続く。

三曲ある応援歌の誕生は昭和三十年。当時の国語教諭で、函南町文化協会長土屋弘光が作詞した。「運動部の壮行会や野球部の大会でエールの交換ができなかった。なんとかしないとの気持ちが強かったので、芸術的なことは気にせず一気に書き上げた」

土屋は「田農健児意気高し」を連呼する第一応援歌をエールの交換用、「広々とした田方の原にそびえ立つ母校…」で始まる第二は壮行会向け、「学びの庭に今きみ帰る…」の第三応援歌は活躍した選手らの歓迎歌にと、それぞれ書き分けた。

土屋はNHKの歌番組などで作曲活動をしていた森義八郎に曲付けを頼んだ。応援歌の完成をきっかけに、「歌だけでは迫力が足りない」と応援団旗や吹奏楽部も次々と生まれた。

運動部低迷の時代が長く続き、土屋は「第三応援歌が幻の名曲になりつつある」と苦笑いする。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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