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明治四十二年九月、始業式辞の下書き個所があった。「勤労は実に奏功の源なりと謂うべし。諸子のごとき、農業者財の生産に従事するものは、勤労の一日もゆるがせにすべからざる者なることを知らざるべからず。嫌悪、不親切、詐欺等の不正の事なかるべし。道に従い、業に服せしかば必ず自己を益し、社会を益するに至るや明らかなり」と生徒に呼び掛ける。さらに米国の小学生が道路の清掃活動を始めた例を挙げ、「この府の世界第一とならしむるはその所以なり」と強調している。 第二代校長で、大八郎と共に学校創設に貢献した望月精太郎(故人)は「平日は立襟の洋服に学帽を召され、朝食前に学校を見回る。暴風雨の時は夜中でも必ず学校を巡視し、雨漏りや排水に注意していた」(仁田孝著『父の横顔』から)と大八郎の校長時代を振り返る。 大八郎には「無知こそ農民の人格立ち遅れの原因」という考えがあった。郡立田方農林学校を設立した明治三十五年は、まだ「農家の子供に教育などいらぬ」とされた時代。大八郎は生徒集めのために、手弁当にわらじ履きで伊豆半島を飛び回った。 家の農作業を手伝わなければならない子には「雨の日に来て卒業すればいい」と説き伏せ、生活に余裕のない子には「私の自宅から通えばいい」と言った。郡からの資金援助はわずかだったため、私費を投入して校地の整備に着手し、校舎の材木は自分の山を切って充てた。 十八年間の校長職を退いてからも、学舎を毎日訪れた。そのころ、新人教員として赴任した斉藤長徳(昭5卒)は「早朝六時ごろ、寝ぼけ眼で農場を見回りに行くと、すでに(大八郎が)一周して帰ってくるところだった。学校のことが心配だったのだろう」と宿直当番を思い出す。学校運営が軌道に乗っても大八郎の心や足が遠のくことはなかった。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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