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北海道旭川市から六十キロ離れた稲作北限の地、士別市と風連町。戦局が激しさを増す中、田農生約百人がこの村で国策による食糧増産に汗を流し、温かい人情に触れた。「同窓が三人集まれば、必ず援農の話題になる。第二の故郷は今どんなだろうか。死ぬ前にもう一度行きたいという強い思いがあった」。平成九年、訪問団長鈴木芳光(昭21卒)らは半世紀ぶりに北の大地を踏み、胸が高鳴った。
昭和十九年、十六歳の田農生たちは初めて親元を離れ、深夜の臨時列車に乗り込んだ。空襲を避けるために輸送は極秘で行われた。二、三人ずつに分かれ、男手のない農家に派遣された。 主な仕事は、水稲の田植えや直播、サツマ芋や除虫菊の収穫。「子供ながらに国のため、家族のためにという自覚があった。純粋だったから仕事も手を抜かなかった」と鈴木芳。父親の出征や祖母の死を伝えられても、帰郷しようとしない仲間に刺激を受けた。 初めのうちは三度の食事に保存食のニシンの干物が出され、電気のない生活に戸惑った。入浴は十日に一度に限られ、シラミによる睡眠不足は最後まで続く。鈴木芳は「蒸気機関車の汽笛とカッコウの鳴き声を聞くたびに郷愁の念にかられた」。志良以孝(同)は「遠く故郷を離れ、親や家族の本当のありがたさを知ったのもこの時」と回想する。早朝五時に起床し、故郷と皇居に向かって手を合わせるのが日課になっていた。 受け入れ先の農家から「援農さん、援農さん」と呼ばれ、家族同然に扱われたのが救いだった。楽しみは各農家に散らばった友人と顔を合わせる日曜日の軍事教練。隣村の女性をこっそり見に行ったり、裸馬の手綱さばきを競い合ったりしたことは援農体験者に共通する思い出だ。 平成九年、再訪メンバーは援農の三カ月間の記録をまとめた「蒼茫の大地遥けし」を発刊した。志良以は「感傷の思いだけで作ったのではない。農学徒と戦争のかかわりを次世代に伝えたかった」と強調する。 再訪をきっかけに新たな交流も始まった。北海道から泥だらけのジャガ芋の詰まった段ボールが送られてくるたびに、当時を思い出し、平和をかみしめるOBは多い。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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