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濁流が襲った。家の屋根や流木につかまった人たち、ゴーという音の中からは悲鳴。人間と動物の手足が水面のあちこちで見え隠れする。仁田駅周辺に突如現れた地獄絵図のような惨状を前に、城所宏侑(昭35卒)ら寄宿舎生は足がすくんだ。 昭和三十三年九月二十六日夜、天城山系を襲った狩野川台風。「一人でも多く助けなければと全員が必死だった」。城所は“極限状態”から生まれた田農生の結束力を今も誇りにしている。
城所は夜明けを待ち、一睡もせずに寄宿舎を飛び出した。家族の安否を考えるとじっとしていられない。山道の裏道を通り、天城湯ケ島の実家にたどり着くのに七時間かかった。 家族は無事だったが、家屋は案の定土砂で埋没していた。泥のかき出しは一向にはかどらない。三日後、数人の教諭が被害状況の把握を目的に姿を見せると、翌日、田農生十五人が続々と駆け付けた。城所は「みんなの協力で火事場のクソ力が出せた」と振り返る。 台風の直撃から三日後、田農は被災生徒の家庭救援を始めていた。普通高の生徒が戸惑いを見せる中、進んで泥沼に足を踏み入れ、動物の死がいにも気後れしない。新設早々の農村家庭科の女生徒は被災家庭の洗濯を早朝からこなした。 半月後には、泥沼から顔を出す畑作物の救出、特産のイチゴ苗の確保と消毒、家畜向けに伝染病の予防注射を実施するなど農業高としての機動力を存分に発揮した。「丹精の作物や数年来愛した家畜が、たとえ他人の所有とはいえ、傍観に忍びない。特技を生かし、農業高の存在を知らしめるのは今しかない」(『耕友』から)という校長関根貞義(故人)の発案だった。小野は「頑張りの利く連中が育った。日常の授業では学べない生命観を培い、結果的に救出作業に教育があった」と振り返る。 半年後、生徒会は「耕友 狩野川台風特集号」を刊行。田農生の一カ月以上にわたる復旧活動のエピソード、農村の災害復興をテーマにした農業クラブの研究を掲載した。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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