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寄宿舎焼失

煙の中、裸同然で脱出

 昭和三十年九月一日、静かだった寄宿舎が久しぶりに活気づいた。夕方になって、夏休みに帰省していた下田や松崎の生徒たちが続々と戻ってきた。故郷の手土産が床に広がり、大きな笑い声が夜まで続いた。生徒らは全員の点呼が終わった後、翌日から始まる二学期に備えていつもより早く寝た。惨事はその夜に起きた。


廊下に一列に並び、点呼をとる寄宿舎生ら(年代不明)
 午前一時十分ごろ。「変な音が聞こえてきて、おかしいと思った」。舎監室の増井和男が布団から抜け出して廊下をのぞくと、玄関から一番奥のふろ場の方で赤い炎が見えた。

 増井の「火事だ、逃げろ」の叫び声に、熟睡中の約二十人の生徒が一斉に飛び起きた。寮長だった山地修身(昭31卒)は「まだ蒸し暑かったので、みんな裸同然。そばにあった作業着を羽織って何も持たずに逃げた」、二階にいた藤井公行(昭32卒)は「目が覚めた時は廊下に煙が充満していた。窓から教科書とノートを放り投げている間に、畳と畳のすき間からも煙が噴き出てきた」と思い返す。藤井は避難用ロープを柱にくくりつけて窓から脱出した。

 生徒らは自家用腕力ポンプで消火を試みたが、老朽化した木造の舎屋は火の回りが早い。約五百八十平方メートルを焼き尽くした。生徒が実家から運んだばかりの冬用衣類、まだ未納だった二学期分の寮費や学費も焼失。数メートルしか離れていない校舎の延焼だけは免れた。大和国利(昭33卒)は「火事のショックは相当に大きかった。身の回りの全てが焼かれた友人もいて、後のことを考えると学校に通い続けられるのか不安だった」と心配が先に立った。

 「ふろ場の煙突の過熱が原因ではないか」などと伝えられたが、当時の教頭斉藤長徳(昭5卒)は「その日は雨が土砂降りの雨だったから、そんなはずはないだろう」と首をかしげる。

 昭和二十九年の浜松西高から島田高、三島南高と県立高の火災が相次ぎ、田農から大仁高にも“飛び火”する。西から伊豆半島へと徐々に忍び寄ってくる不吉な風に、地元では「何かおかしな力が働いているのでは」としばらくうわさになった。OBらの間では「漏電ではないか」との見方が今でも根強く、詳細は不明のままだ。

 火災から一年半後、斉藤ら教諭陣が松崎の養蚕試験場の建物を譲り受けて新寄宿舎ができた。友人や親類宅を転々としていた生徒らは胸をなで下ろした。だが、わずか三年後には交通の便が良くなったことなどを理由に寄宿舎に入る生徒が少なくなり、取り壊しの方向に進んだ。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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