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終戦の直後、田農の運動場に体高五メートル、体長十メートルの巨大ホルスタインが出現した。獣医畜産科の生徒が一カ月をかけて共同製作した。牛の足は相撲場の鉄砲柱。木材を骨組みし、新聞紙や障子紙を張り付けた。大隅昭吾(昭22卒)は「解剖などで牛の体が頭に入っていたから、図面も設計図もいらなかった」、鈴木昭吾(同)は「獣医畜産科の最後の年に、自分たちの心に何かを残したかった」と思い返す。
三島の砲兵連隊から廃馬を払い下げてもらうなど、解剖実験の素材には事欠かない。生徒らは牛や豚の去勢手術を地元農家から頼まれるほど、高度な技術を身につけることができた。農業科が援農に借り出されても、獣医畜産科の生徒は学校に残り、勉学に励んだ。 戦況が不利になると、獣医師の免許を持っていた担当教諭三田広男(昭10卒、故人)にも再び召集令状が届いた。出征していく三田を仁田駅で見送った遠藤龍雄(昭22卒)は「軍服のりりしい後ろ姿に、獣医への思いを強くした」と振り返る。三田の後を追い、獣医師の補佐役として入隊することを夢見た生徒も多かった。 終戦は学校のラジオで聞いた。生徒の心の中では敗戦のショックと、思い描いた道が突然閉ざされた挫折感が交錯した。戦地の獣医が帰還すれば、人材が余り出すのは明らかだ。遠藤は「あの時戦争が終わっていなければ、迷わずに獣医を目指しただろうと今でも考えることがある」とぽつり。戦争に翻弄(ほんろう)されたという思いはあるが、「若き時代に大きな夢を抱いた記憶は今を支えている」と力を込める。 二十三年、獣医畜産科は学制改革により正式に廃科となり、畜産科に名称変更。教育方針も酪農経営者の人材育成に転換していった。 農芸化学科は昭和二十九年、農家の二、三男対策として新設された。地域の要望が強く、全国初の試みだった。教諭の梅原正義(昭16卒)は県教委の命を受けて東京大の応用微生物学研究室に一年間留学。「微生物の培養など大学生と同じような実験・研究を組み込もうと必死だった」。実験用テキストを作成し、新設科の礎を築く。以降、食品の製造や検査技術を身につけた優秀な人材を地元のメーカーに送り出した。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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