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学校かいわい(下)

生徒の笑顔が元気の素

 道路がまだ舗装されていなかった時代、沼津市西浦や三島、韮山方面の自転車通学組が一番頭を痛めたのがパンク。大正十年ごろ、青木喜作(大7卒、故人)が学校近くに開いた「青木自転車店」はすぐに、そんな生徒たちの評判を呼んだ。長男の務(昭23卒)は二代目。大正末期から戦後にかけて、青木親子の後ろ姿を見て田農時代を過ごしたOBは少なくない。


自転車通学組が立ち寄った青木自転車店の2代目務さん=函南町間宮
 西浦から一時間かけて通った内田栄(昭27卒)は「砂利道ばかりで、三日に一度はだれかがパンクしていた」と思い返す。途中でパンクしたり、壊れたりすると困るから、自転車組は集団で登下校するのが一般的だった。“西浦グループ”は青木自転車店を帰りの集合場所にする伝統が続いていた。

 青木親子は生徒に占領された作業場の片隅で、次々と壊れた自転車を復活させた。卒業生の多くは「口数が少なく、黙々と作業を行う典型的な職人タイプ」と二人を表する。務は「放課後の店内は常に生徒でいっぱい。友人を待っている間に、見よう見まねで修理の仕方を覚える子もいた」と懐かしむ。冬になると、生徒のくれたミカンの香りが作業場に充満した。

 仁田駅前の駄菓子屋「田島屋」は、昭和五十年以降の卒業生に思い出深い。夕方になると、練習を終えた運動部員たちでにぎわった。「おばちゃーん、今日も正座と反省文だった」。昼休みにカップラーメンを買いに来て怒られた連中が、またやって来る。店主田島君子は「子供たちとのやりとりが元気の素になっていた」と楽し気。

 食品科学科教諭の鈴木直人(昭55卒)は野球部時代の常連組。「家まで腹がもたないので、電車の待ち時間に通った。十円、二十円のおまけが当時は本当にありがたかった」と振り返る。月曜日には、土、日の練習試合の結果を報告に行った。田島は「生徒の顔を見ればすぐに結果がわかる。負けてきたね、と声を掛けるとニコッとする子供たちがかわいくて」。大威張りで生徒が立ち寄った時は「雨が降るぞ」と空を見上げて笑わせた。

 大正十年ごろ、仁田駅の開設に併せて開店したのは駄菓子店「井村屋」。養蚕の宿直当番や牛のお産を控えて学校に寝泊まりした生徒が利用した。平成に入ってコンビニに生まれ変わり、最近の生徒にもなじみ深い。

 駅前の商店街に今は姿を消した思い出の店がある。ソフトクリームで人気を博した「天豊」、お好み焼き屋「さつき」、教諭陣らも出前で利用したラーメン屋「三ツ石」などの名が挙がった。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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