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歴代校長

「子弟教育」の伝統脈々

 創設者仁田大八郎が掲げた「農村子弟教育」の建学理念は歴代校長に脈々と受け継がれた。二代望月精太郎(大8―10、故人)、三代津田勉造(大10―11、故人)の二人は開校時の屋台骨となり、学校運営を軌道に乗せた。

 官僚経験者の六代米山弘(昭5―12、故人)は時折、廊下越しに授業をのぞき、生徒だけでなく教諭陣も緊張させた。指導法に対する要求も高く、新任だった斉藤長徳(昭5卒)は「職員室で、こうした方が生徒に分かりやすいなどと注意された。がっちりとした体格で威厳があった」と回想する。省官庁人事などを掲載した「官報」が毎日のように学校に届いた。

 九代寺前利一(昭16―21、故人)は戦時下の田農を引っ張った。全校生徒で箱根山を夜通し歩く恒例行事には自らわらじを編み、「おれも行く」と先頭に立って気概を示した。帰省中の正月に急逝し、教頭の大川勝蔵(昭21―22、故人)が後を継いだ。

 狩野川台風の被災者救援へ向かう生徒に「農業高校としての使命」を熱っぽく訴えた十二代関根貞義(昭30―34、故人)。校長室にほとんどいなかったことでも知られる。創立六十周年を記念して木造から現在のコンクリート校舎への建て替えを画策するなど校外を飛び回った。

 関根は政治的手腕を発揮した。当時、校舎の建設には三分の一の地元負担が必要だった。田方郡十カ町村の首長の半数が田農OBだったことに目を付けた関根は町村長会議での勝算を見越し、OBのいる各町村を根回しに歩いた。建設の確約を取り付けて、十三代小山令次(昭34―40、故人)に後を託した。

 無類の現場好きで知られるのは、果樹専門の十四代梅原秀憲(昭40―49、故人)。実習服に長靴姿で農場に現れ、生徒と一緒にトラクターを動かした。ノートを取る生徒の顔をのぞき込んでは声を掛け、積極的に生徒の輪の中に溶け込もうとした。内田義一(昭42卒)は「見た目は取っ付きにくいが、一緒に作業をしていると気さくな人柄が分かった」と思い返す。

 十八代森下紹三(昭58―61)は新校旗を作製。十九代太田昭(昭61―ー平元)の二代にまたがり、コンピューターで室内環境を管理する園芸ハウスやバイオテクノロジーの研修棟を完成させるなどハード面の充実を図った。

 二十三代佐々木盾(平10―13)は百周年事業の一環で自然観察園の造成に着手し、愛玩動物コースやライフデザイン科セラピーコースなどを新設。「刻々と変化する時代の要請にこたえていかなければ」と新しい農業高の在り方を模索した。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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