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養蚕の「さぶちゃん」こと渡辺三郎(昭19―平1)が生徒を諭すときの決まり文句は「人に使われる人間になれ」。ずんぐりした体格と鼻下のちょびひげで愛くるしい雰囲気を漂わせる半面、やることは豪放だった。
カンニングだけは許さなかった。「ナシ畑に入ったら帽子が曲がっても直すな。イチゴ畑では、靴のひもがほどけても直すんじゃない」。疑われるようなことはするなという教えをこんな風に説くのも渡辺だけだった。 薫陶を受けた韮山町長の渡辺解太郎(昭31卒)は「教科書もそっちのけだったが、心の丸い先生だった」、函南町長の芹沢伸行(昭31卒)は「悪さをしても肩をポンと叩いて陰に日なたに生徒の気持ちをくんでくれた」と思い返す。 英語担当の泉明寺基行(昭19―50、故人)も情熱家。北海道への援農実習を引率した昭和十九年、血気盛んだった泉明寺は他の教諭陣が四十日間で帰郷する中、「次のグループの面倒も見る」と現地に残った。生徒から「帰らなくても大丈夫なの?」と心配する声も上がった。新婚ほやほやだった。妻すさのは「心配で学校に相談に行ったことも。田農で働くことを誇りにしていた」と思い返す。泉明寺の北海道の滞在は八十日に及んだ。 畜産担当の野田翠二(昭27―46、昭52―平1)は「綿羊(めんよう)」。ヒツジの飼育法を説明するために「メー」の鳴き声をまねたことに由来する。丹那農場の開設時には、生徒と一緒に泥にまみれ「田農の畜産科を立て直すんだ」と鼓舞した。 諫早正夫(昭43―60)は「まさお」の名前と怒ったときの真っ青な表情から「まっさお」、瓜島智雄(昭20―44)は「うり」、農村家庭科の一期生を担任した鈴木みさ(昭23―52)は男子生徒からも「お母ちゃん」と慕われた。国語の土屋弘光(昭28―50)は演劇部など文化活動に貢献した。自然観察園のシンボル的存在のメタセコイヤを実生から育てた芹沢高久(昭26―55)は「うんち」。「ノロノロ」と呼ばれた園芸担当の野呂昭(昭45―58、故人)はベゴニアの大家で、開発品種が今も学校に残っている。 創設者仁田大八郎の長男孝(昭3―11、故人)と三男辰男(昭15―38、故人)も父の遺志を継いで教壇に立った。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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