![]() | <49> |
「小よく大を制す」。昭和五十年代の県アマ相撲界をリードし続けた秋山忠雄(昭45卒)。百七十四センチ、九十キロの小兵を最後まで支えたのは、田農時代に覚えた「突っ張り」だった。高校では果たせなかった国体にこだわり、通算十回の出場記録を残して現役を退いた。
以来、先輩のしごきは一層激しくなった。当時の部長藤沢誠(昭44卒)は「OBから『秋山を強くするのはおまえだ』と言われていた。負けん気が強く、正面からぶつかってきた」と振り返る。二人は毎晩、寄宿舎の窓からこぼれる薄明かりの中で突っ張りの稽古に励んだ。「こい」。額は真っ赤にはれ上がり、口から血を吹き出しても藤沢は自分の胸に秋山を呼び込んだ。秋山は「光に照らされた先輩の目に涙が浮かんでいたのを忘れることができない」としみじみ語る。 突き相撲を身につけた秋山は翌年の県大会も制し、東海四県では三位に入った。だが、一番の目標だった国体予選だけは勝てなかった。七つの大学から誘いを受けたが、すべて断った。「最後はだれも助けてくれない。自分自身の問題だから」。実業団にも属さなかった。たった一人、実家の農業を手伝いながら国体を目指す。 「あいつ、頭がおかしくなったんじゃないか」。発汗用のウインドブレーカーなど買えなかった時代。天気が良いのに雨具を着込み、重さ三キロの鉄ゲタを履いて歩く。近所からは変態扱いされた。柿の木にくくりつけた自転車のチューブを引っ張って、両手の筋力を強化。昼間は建設会社のアルバイトで鉄筋をかついだ。 二十歳で国体初出場。「自分の突き相撲は立ち会いで七割が決まる。絶対に後ろに下がらない」。昭和四十八年の国体団体戦では、栗原光広(昭43卒)とともに県勢を十三年ぶりのベスト16に導いた。以降、全日本青年選手権出場八回、東海四県大会団体優勝二回、県大会個人優勝十回とアマ相撲界で大暴れ。三十二歳の時、栃木国体の十回出場を区切りに全国舞台から退いた。「プライドは残っていたが、三十過ぎのおやじが代表になるようでは県相撲界の底上げができない」が理由だった。 「相撲は礼に始まり礼に終わる。相撲のおかげで少しは周囲に認められるようになり、感謝している」と秋山。現在は、レジスターの組立会社を経営する傍ら、相撲連盟沼津支部相談役として後進を指導する。四姉妹の父親。今月一日に開かれたちびっ子相撲大会には九歳の四女を出場させ、良きパパの顔をのぞかせた。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
|
引佐高の100年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |