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剣道部(上)

常勝韮中破り県初制覇

 昭和十六年十月、明治神宮大会の県予選個人準決勝。梅原正義(昭16卒)が最大のヤマ場と考えていた韮中生との対戦は、三度目の延長に突入していた。

 昭和十年代の韮中剣道部は団体で県四連覇を成し遂げた県内屈指の常勝軍団。息詰まる攻防にピリオドを打ったのは、相手の出際を狙った梅原の「出小手」。伏兵の一本勝ちに観客がどよめいた。「『田農ごときに負けた』と韮中OBでちょとした騒ぎになったらしい」。優勝候補にひと泡吹かせ、梅原は喜びを爆発させた。


県個人戦を制覇した梅原正義さん(左から2人目)と当時のメンバー=昭和15年、田方農業
 勢いに乗った梅原は続く決勝をストレート勝ちし、剣道部史上初の県内タイトルを獲得する。団体で出場した全国大会は大将梅原の一勝だけで初戦敗退。「東京に向かう時、全校生徒と職員が校門から仁田駅のホームまで列を作って送り出してくれたことが今も忘れられない」という。

 梅原は田農卒業後、千葉大園芸学部に進む。卒業間近、自ら志願して豊橋予備士官学校に入るが五日後に終戦を迎え、教員生活に入った。

 修善寺工に一年半勤務した後、田農に着任。剣道部顧問時代は「剣道を通して人間を作る」がモットー。黙とうの合間に、古来の剣聖の道歌を生徒に詠み聞かせた。「若きとき、流さぬ汗は老いて後、涙となっていずるものなり」。当時から好んだ詩は、教職を退いた後十年以上続けている保護司でも引用する。

 体育教諭で、剣道部の特別講師だった相原万長(大11卒、故人)は昭和五十九年、第六回全日本高齢者武道大会を制し、全日本剣道連盟から範士七段の称号を受けた。県高体連剣道部長、修善寺競輪学校の剣道講師を歴任、各地の少年剣道大会の開催に尽力するなど県内剣道界に計り知れない足跡を残した。

 相原が創設した大仁町体協剣道部で指導する錬士六段西島久儀(昭47卒)は「九十歳になっても竹刀を手に生徒の挑戦を受けた。根っからの剣士だった」と懐かしみ、晩年の相原と竹刀を合わせた小野雄大(平6卒)は「いつも竹刀を肩に掛け、車輪の付いた防具袋をコロコロと引きずりながら武道場を後にした。師の防具を担ぐのが当たり前だが、『自分で防具が持てなくなったら剣道を辞めるとき』と絶対に生徒に触らせなかった」と剣豪をしのぶ。

 四年前、地元の少年剣道大会に出席し、帰宅途中に急逝。梅原は「田農剣道部の一時代が終わった」と泣いた。相原直筆の「霊妙無窮(れいみょうむきゅう)」をプリントした手ぬぐいが配られ、OBは剣士の在り方を再び心に刻み込んだ。 「目に見えない人の心と同じく、武道は追求しきれない。精進有るのみ」。田農武道場の上座には相原の遺影が掛けられ、今も厳しい表情で現役生を見守り続けている。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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