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戦後、進駐軍の命令で廃部した剣道部が再建に向けて動き出したのは昭和四十一年冬。武道場新設が校内でうわさになったころ、芹沢清、上田康吉(昭43卒)らが有志六十人を集め、同好会からスタートした。
当時、三島南高剣道部の顧問だった相原万長(大11卒、故人)が防具十組を寄贈。多難の船出だったが、早くも三年後に実績を上げる。古瀬勝久、加藤常夫(昭45卒)らが団体で東部大会三位、昭和四十六年には女子主将の二段沢出よし子(旧姓鈴森、昭47卒)が県東部の個人で優勝し、団体とともにダブル制覇。翌年には初段小野和子(旧姓山口、昭49卒)が東部地区個人で準優勝するなど女子勢の活躍も目立った。沢出は「男女の区別なくハードな練習だった。武道場のうさぎ跳び十周を命じられ、四隅で待ち伏せする先輩から竹刀でたたかれた。歴史が浅かったため、勝つことに必死だった」と振り返る。 元読売新聞記者で、三島剣道連盟の五段中川辰男(昭21卒、故人)や加藤賢一(昭16卒、故人)ら復活を喜んだ戦前のOBが頻繁に格技場を訪れ、現役生にけいこをつけた。芹沢は「いつもちょうネクタイ姿で、鬼のような存在。頭の先から出る鋭い気合に足が震えた」と中川にしごかれた当時を語る。 復活後の剣道部を巣立ったOBは、これまでに三百五十人。平成六年五月には、相原を名誉顧問に迎えOB会「剣耕会」が発足した。小野雄大(平6卒)が現役生として歴代最高の三段位に合格したのをきっかけに、芹沢らOBの間で「後進のバックアップをしよう」と盛り上がった。 今年二月、畳四枚分の青地に相原の好きだった「霊妙無窮(れいみょうむきゅう)」をあしらった部旗を寄贈。三代目会長服部勇治(昭46卒)は「戦前からの輝かしい伝統を消滅させてはならない。在校生の励みになれば」と後輩に発展を託す。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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