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バレー部

旋風起こす豊竹イズム

 「大バカヤロー」。練習でも公式試合でも、所構わず選手を怒鳴り散らす。鬼気迫る表情は相手チームや応援団も圧倒された。熱血指導で昭和五十年代のバレー部全盛を築いた顧問豊竹徹(昭49―58)。一回戦突破さえ夢だった“弱小チーム”を就任二年目で優勝候補の一角に引き上げた。


昭和50年代の田農バレー部全盛期を率いた豊竹徹さん=函南町上沢
 前任の修善寺工バレー部を立て直し、県優勝に導いた手腕は折り紙付き。豊竹が田農バレー部で最優先したのは「技術的なことよりも精神面からの鍛え直し」だった。生徒を小突き、激しい言葉で叱咤(しった)した。歯がゆい試合では、手持ちのコーヒーカップが飛んだ。「五年で結果が出なければ自分の責任」という信念で生徒と向き合った。

 当時の主将碓井実(昭51卒、旧姓土屋)は「学生服を着たまま、遊び半分で練習していたチームが本格的な練習についていけるはずがない。先生の『一緒にバレー部を再建しよう』という涙ながらの一言で続けることができた」と振り返る。

 豊竹は東レや松下電器など実業団バレー部を田農体育館に招き、生徒に全国レベルを体験させた。連続18セットの練習試合、間断なく二時間に及ぶスパイク練習…。遠方で通えない生徒を自宅に下宿させ、寝食を共にした。伊東市出身の稲葉寿夫(昭52卒)は「バレーのことしか頭にない生活。良い意味で人生を変えられた」と思い出す。

 “豊竹イズム”は着実に浸透した。鬼の特訓に耐えた田農バレー部は急速に力をつけ、県大会でもダークホース的存在に位置付けられるようになる。昭和五十一年の国体予選で三位、二年後には優勝した掛川工に大接戦の末敗れたが、再びベスト3に食い込んだ。

 米山美好(昭53卒)は「バレーの魅力を教えられ真剣になれた。名門校と対戦するときほど燃える先生だった」、代谷和彦(昭54卒)は「大会前は、最終バスがなくなるほど夜遅くまで居残り練習。一カ月半、先生の自腹でタクシー代をもらい続けた」、持田寛治(昭52卒)は「三年の引退試合の時、ぽろぽろと涙を流しながら選手全員と握手した。涙もろい先生だった」と、歴代主将が当時を思い返す。

 田農旋風を巻き起こした当時のメンバーはOB会「豊竹ファミリー」を結成し、今でも当時の苦しい特訓の日々を振り返る。豊竹は言う。「生徒に一生の思い出を作るのが自分の仕事。無我夢中の高校時代を送り、誇りと自信を持って卒業してほしかった」。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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