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半年後の東京五輪を控えて日本中が沸き返る昭和三十九年四月、稲葉幸雄(昭40卒)は九州へ修学旅行に向かう同級生の一団を沼津駅で見送った。「五輪の日程に合わせて総体東部予選が早まった。少しの練習時間も無駄にできないと思い、一人だけ学校に残った」。その一カ月後、稲葉率いる卓球部は田農運動部史上に燦然(さんぜん)と輝く県シングル、ダブルス、団体の完全制覇を成し遂げる。
休日はダブルスでペアを組む田村延弘(同)と二人で武者修行に出た。東京都内の卓球用品メーカーの練習場に押し掛け、実業団に交じって打ち合ったこともあった。稲葉は「ピンポンが好きだっただけ。授業中も、ラケットを握りやすくするために一生懸命ナイフでグリップを削っている部員がいた」と卓球漬けの三年間を語る。 主流から外れた一枚ラバーのラケットを使い、コントロールを重視するのが稲葉の戦術。「前陣速攻型」で、両隅に正確なスマッシュを打ち分ける。台ぎりぎりにへばりついて積極的に攻撃を仕掛けるのが必勝パターン。田村も同じスタイルだった。 三年間の思い出は、後に一九六七年のストックホルム世界選手権を制した愛工大名電高の長谷川信彦と三度対戦したこと。「全部ストレート負けの記憶しかない。強化合宿などで一緒に生活したが、卓球に対して人を寄せ付けない厳しさがあった。自分も彼ぐらい努力できれば世界で戦えたかな」と苦笑する。 最後の雪辱を誓った全国総体では順当ならベスト16で対戦が実現するはずだったが、長谷川がまさかの敗退を喫する。稲葉は長谷川を破って勝ち上がってきた選手を下し、ベスト8進出を果たした。 卒業後は大学からの誘いを断り、ミカン農家を継いだ。以来三十五年間でラケットを握ったのは温泉旅館で誘われた二回だけ。「全国大会で天性の素質がある選手を目の当たりにして、辞める決意をした。趣味や遊びでやる気にもなれなかった」。総体会場だった三重県営体育館には二度、旅行ついでに足を伸ばした。「会場を見ると、まじめにやれば何でも実現できると自信が沸くんです」。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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