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卓球部(下)

総体常連校の座つかむ

 昭和三十―四十年代、卓球部は総体常連校として全国に名をとどろかせた。

 当時の顧問杉山純一(昭27―47)の信念は「基礎のない生徒に高度な卓球をやらせても砂上の楼閣。強い選手を集める西部の高校と同じ練習で勝てるはずがない」。ルールも分からない卓球部を預かって十年あまり、日体大卓球部をコーチに招き、独学で学んだ卓球理論を生徒にたたき込んだ。実戦形式の紅白戦は禁止し、フットワークやカットの練習に時間を割いた。「練習メニューを変えてほしい」という生徒の訴えを「自分の目の黒いうちは駄目だ」と突っぱねた。


全種目で全国総体への出場を果たしたメンバー(上段左から2人目が杉山顧問)京都市体育館(昭和38年)
 昭和三十三年、初めて東部団体戦で優勝した。当時のメンバーで、昨年まで五十歳代の日本ランクに名を連ねた岩田義雄(昭34卒)は「放課後は基礎練習ばかりやらされたので、自主的に朝練を始めた。二台しかない卓球台を確保するために、部員たちで早起きの競争になった」と打ち明ける。「卓球部が授業中に居眠りしている」と学校側で問題になったが、浅井忠義(同)は「自分が防波堤になるから、君たちは練習すればいい」と杉山から諭された記憶が忘れられない。

 昭和三十六年、勝海和良、白井正公(昭37卒)らがシングル、ダブルス、団体の全種目で東部を完全制覇。翌年、杉山重義、鈴木孝志(昭39卒)の二年生ペアがダブルスで県三位に入り、悲願の総体切符をつかんだ。現在、加藤学園高卓球部顧問の鈴木は「インターハイの壁は厚いが、確実にヒビが入り、手の届くところまできたと先生やOBからはっぱをかけられた」と回想する。

 昭和三十八、九年は二年連続で全種目総体出場。稲葉幸雄、田村延弘(昭40卒)のほか、団体には白井勲、長川弘(同)加藤薫(昭41卒)らがいた。

 田村は卒業後、中京大に進み、部員百人を束ねる主将に。愛知県代表としてダブルス国体三位に入り日本ランク五位、西日本選手権シングルを連覇、ヤマハでは団体で全日本選手権を制すなど輝かしい戦績を残した。

 杉山が顧問を退いてからも、実習教諭で卓球部OBの原秀雄(昭29卒)が後を継いで後輩を指導した。五十二年、青木郁雄、堀池稔浩(昭54卒)のダブルスで二年連続の総体出場。杉山が率いる三島南高と出場権をかけた三位決定戦は「師弟対決」と騒がれた。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。
    

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