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野 球 部

17年ぶりに夏空に校歌

 昭和六十一年七月、田農野球部は沼津高専を10―3の八回コールドで退け、十七年ぶりに校歌を大空に響かせた。夏の通算十勝目だった。

 リリーフエース井上伸二(昭62卒)が八回裏に放った本塁打でコールド勝ちが決まった。井上は「プロ野球選手のように打球がスタンドに入るのを見届けてから走り始めて、高野連から怒られた。一周して本塁に戻った時は、すでに両チームが整列していて恥ずかしかった」と苦笑いで振り返る。当時の監督臼井好治(昭55―平2)は「終盤で勝利が見えたので、試合に出られない控え選手を準備させていたが、あの一本で拍子抜け。コールドを本塁打で決め、『まさか』が続いた」と思い出す。


17年ぶりに田農の校歌を響かせるナイン=富士球場(昭和61年7月)
 入学当初、運動場の整備工事が完了し、右翼方向にあったテニス場が移動。伸び伸びと打撃練習ができるようになったことで、選手の練習にも力が入った。現食品科学科教諭で、当時副部長としてベンチ入りしていたOB鈴木直人(昭55卒)は「隣のガラスハウスに打球をぶち込んで、ピンセットを手に散らばったガラスを拾いに行ったことが度々あった」と思い出す。あれから十五年、再び勝利から遠のいている。

 野球部の創設年次は定かでないが、明治三十七年六月、韮中との間で練習試合を行ったことが記録に残っている。まだ同好会の色合いが濃く、すでに部として本格的に活動していた韮中には全く歯がたたなかった。0―32の大敗だった。

 戦前、夏の県予選には出場していない。初出場は昭和二十二年、戦後二回目の大会。当時のエースで四番の角田実(昭23卒)は「入学した当時はまだ軟式野球部だった。三年になって学校側に頼んでようやく硬式野球連盟に加盟してもらった。部員は十五人ほど。組み合わせ抽選会に一人で静岡市まで行ったが、他校は先生ばかりなので戸惑った」と懐かしむ。浜松商に6―11で敗れた。負け試合の言い訳は決まっていた。「くわを持ったら一人前。バットなんて持ったことがない」。さばさばとしていた。

 初勝利は二年後、角田の弟定男(昭25卒)らが実現する。「函南病院の副院長のつてで、慶応大学の現役選手を十人ほど連れてきてもらい、一カ月ほど鍛えてもらった」。初戦の二回戦で磐田南に6―4と競り勝ち、ベスト16を決めた。その後の最高成績は横須賀、相良に連勝した昭和三十九年で、三回戦に進出した。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。
    

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