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昭和四十七年八月、全国高校総体のやり投げ。審判の赤旗が上がった瞬間、優勝候補の筆頭に上がっていた田中徳文(昭48卒)はフィールドに倒れ込んで顔を覆った。三回の試技がすべてファウルに終わり、まさかの記録なし。「頭がぼう然として、目の前が真っ暗になった」。 飛距離は十分だった。だが、慢性のひじ痛で思うようにやりに鋭い回転を掛けられない。ふわりと宙に浮いたやりは後方から落下し、距離判定不能とみなされた。
東海四県でも抜きんでた強さを見せつけ、「全国でもメダルは確実だろう」という声が聞こえ始める。「今考えれば県内敵なしの状況で、甘えとうぬぼれが生まれたのでは。人の十倍練習したつもりだったけど」。下半身の強化不足がたたり、肩とひじに負担が掛かった。大会の一週間前から痛み止めの注射を打って出場する。続く国体、最後の全日本ジュニアでもファウルを重ねた。全国舞台で投げた九投すべてファウルだった。 順天堂大を卒業した後、造園業を経営。国体強化合宿を共にしたハンマー投げの室伏重信とは、今も年一回のゴルフを楽しむ。中学生の長男は親譲りの強肩を生かして昨年の全日本軟式野球の準優勝投手。応援で全国各地を飛び回るのに忙しい。 十年前、陸上部OBを中心に駅伝チーム「伊豆狂走(きょうそう)会」が発足。田中が会長を務め、エースの高橋弘樹(昭58卒)と大川恒義(昭53卒)は第一回県市町村対抗駅伝に出場した。 昭和初期は駅伝も盛んだった。西島利一(昭28卒)は昭和二十七年、県駅伝大会で四位に入った時のエース区間一区を走り、五位でたすきをつないだ。日体大に入学し箱根路を夢見たが、チーム内競争は激しい。二人に絞られた六区の最終選考で落選した。「陸上エリートの中で、雑草の自分があと一歩まで残れたことがうれしかった」と西島。本番では、走者のマッサージや衣類の管理など「天と地の違いを味わった」が、「ランナーが何を欲しているか。下積み時代の経験が生きた」。卒業後、体育教師として三島南バレー部を全国に導いた。 最近では、高校男子八百メートルの県陸上ランキングで六位に入った渡辺治貴(平13卒)がいる。 (文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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