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しまむら ひでき氏
 1941年、東京都生まれ。東大理学部卒。北海道大海底地震観測施設長を経て、同大理学系研究科教授、同大地震火山研究観測センター長。著書に「地震は妖怪 騙された学者たち」(講談社)、「地震列島との共生」(岩波書店)「地震と火山の島国−極北アイスランドで考えたこと」(岩波ジュニア新書)など。

島村教授のホームページ

  ■ 島村 英紀


2001/02/26
■「インドで起きた」北伊豆地震

   北海道大学で修士論文の発表があった。そのひとつが、スリランカで取ってきた岩の分析だった。南極の地質の研究のためだ。

 え、南極、と驚くかもしれない。スリランカもインドも、昔は南極と地続きだったのである。氷に覆われているだけではなく、行くだけでも大変な南極だが、暖かい国で研究することもできるのだ。

 かつて、インド大陸も南極大陸もゴンドワナ古大陸という大きな大陸の一部だった。約一億年前、この大陸は分裂し、インドとスリランカは南極を離れて、ひたすら北上を続けることになった。

 やがてインドはユーラシア大陸に衝突した。四千万年前、地球の歴史を一日にたとえたときに、今から十二分前のことだ。日本列島が出来た倍ほど昔である。

 その後も、インドを載せたプレートは動き続けている。つまり、インドはユーラシアと押し合いを続けていることになる。世界の屋根、ヒマラヤは、こうした押し合いの結果、プレートがまくれあがって出来たものなのだ。だからヒマラヤは、いまだに、ゆっくりながら高さが高くなっていっている。

 ヒマラヤの山頂で貝の化石が見つかることがある。いま七、八千メートルもある土地も、インドがぶつかってくる前は、海の底だったのだ。

 山ができるだけではない。押し合っていて地下に歪(ひず)みがたまれば、たびたび地震が起きる。たびたび、といっても地球の時間スケールの話だ。

 こうして起きた地震の一つが一月二十六日にインド西部を襲ったインド大地震(マグニチュード7・9)だった。二万五千人前後、あるいはもっと多くの犠牲者が出たと報じられている。ご冥福を祈る。

 この連載をお読みの方は憶えているかもしれない。インドが北上して陸地にぶつかったのは、地球の歴史では、伊豆半島が日本列島に衝突したことと、じつはそっくりの事件なのだ。

 つまり、フィリピン海プレートの動きが直接、間接に起こす一連の地震、たとえば北伊豆地震(一九三〇年、マグニチュード7・3)や、起きるかもしれない東海地震と、このインド大地震は、親戚筋の地震だったのである。


2001/02/19
■清水港がロシアの港になっていたら…

   清水港や田子の浦港がいまロシアの港でなかったのには、地球科学的な理由がある。

 日本は四つの大きな島からできている。しかし、はじめから四つの島があったわけではない。じつは、日本列島は、いまロシアや中国がのっている大陸の東の端を占めていた。つまり島ではなくて大陸の一部だったのである。

 地球の歴史を一日にたとえたときに、いまから六分前に大陸の東の端にひび割れが走り、日本列島が大陸から分かれた。日本列島の誕生である。

 その後、割れ目はどんどん大きくなっていった。割れ目、つまり日本海が次第に大きくなったものだから、日本列島は東へ東へと押しやられ続けた。

 しかも、中央部だけが異様に大きくなったものだから、はじめまっすぐに近かった日本列島は、しだいに逆「く」の字の形に曲がっていった。能登半島から関東にかけてが、いちばんたくさん押し広げられたことになる。

 しかし、それまでだった。日本海は、突然、その動きを止めてしまったのである。つまり地球の歴史を一日にたとえたときに、日本海はわずか一分半だけ活動した短命の海なのだ。

 もし日本海が生まれていなければ、いまの日本列島はなかった。そして、間違いなく、いまの静岡県は大陸の東の海岸線にあったはずである。

 つまり清水港や田子の浦港は、大陸に住む人たちが太平洋に出るための重要な港になっていたかも知れないし、焼津港や沼津港は彼らが魚を捕りに行く重要な港になっていたかも知れないのだ。

 残念ながら、現在の地球科学は、なぜ日本海が開き始めたのか、そして、ごく短い間に、なぜ開き終わってしまったのかのナゾは解けていない。分かっているのは、開いたという事実と、いつ開いたかという時期だけなのである。

 しかし、地球には、ちょうど、いま開きかけている海もある。私たちが今度の冬に行って研究をすることを計画している南極海には、日本海の赤ちゃんだと私たちが思っている、まだ小さな海がある。ここを研究すれば、日本海のナゾが解けるかも知れないのである。


2001/02/12
■「魔の丹那」の地球科学的な理由

   新丹那トンネルは長さ七千九百五十九メートル。新幹線だと約二分で通り抜けてしまう。外が見えないから、居眠りをしていたり、読書をしている人が多い。

 しかし私たち地球科学者は、それほど心中穏やかではない。このトンネルは列車が時速三百キロもの速さで活断層を突っ切って走っているという、世界でもまれな場所だからである。

 このトンネルの前に掘られた丹那トンネルの工事は、吉村昭の小説『闇を裂く道』にあるように、想像を絶する難工事だった。何度もの落盤事故で六十七名もが犠牲になった。

 夥(おびただ)しい出水は、芦ノ湖の水量の三倍にも達したばかりではなくて、トンネルから百六十メートルも上にある盆地に渇水と不作の被害までもたらした。ワサビ農民の一揆も起きた。

 さらに大地震まで起きた。工事中の一九三〇年に起きた北伊豆地震は、阪神淡路大震災を起こした地震よりも大きな内陸地震で、掘削中のトンネルが三メートル近くも左右に食い違ってしまった。

 トンネルを掘っているときにはもちろん知られていなかったが、この丹那断層はA級の活断層である。過去に数百回の地震を起こしながら、食い違いを蓄積してきている。だから、この辺の山も谷も、すでに一キロも南北に食い違っている。北伊豆地震はその数百回のうちの一回だったのだ。この活断層の原動力も、東海地震を起こすプレートの動きである。

 つまり、掘ったときはまだ知られていなかったが、丹那トンネルも新丹那トンネルも、図らずも活断層を掘り抜く工事だったのである。活断層ゆえに、破砕帯も多く、岩は崩れやすく、地下水もそこに集中していて当然だったのだ。しかもその活断層が起こす地震も、工事中に起きてしまったのである。

 この活断層の調査は八〇年代に行われ、活断層が地震を起こす周期が七百年から千年だと分かった。次の大地震がいつ起きるか、まったく分からない場所が多い日本では、これらのトンネルは、それでも相対的には安全なところなのだ。

 逆に言えば、伊豆に限らず、日本列島全体は、それほど不安定なところにあると言うべきなのである。

 【注】「闇を裂く道」は静岡新聞に昭和61年4月から12月まで連載。文芸春秋から出版


2001/02/05
■日本列島に最後に衝突した島

   新幹線や東海道線と違って、静岡から東京へ向かう東名高速道路は、まっすぐ東京へは向かっていない。沼津から左へ大きく迂回して、御殿場経由で大井松田へ抜けている。

 東名高速道路が開通して三十二年になった。静岡県の人にとっては、すでに、あまりにおなじみの道になっているのに違いない。

 しかし、私たち地球科学者は、いつも、ここを通るたびに、特別な感情に浸る。それは、この道が、日本列島の歴史上、最後に日本列島に衝突した島の海岸線をなぞっているからなのである。

 その事件は約五十万年前に起きた。私たち人類の時間のスケールから見ると、途方もない昔のように見える。しかし四十六億年の地球の歴史を一日にたとえれば、この島の衝突は、今から、たった九秒前のことなのである。

 その島は、いま伊豆半島と呼ばれている。この島が南の方からプレートに載って運ばれてきて、本州に衝突し、勢い余って、本州にかなり深くまでめり込んだ。このプレートは、繰り返し東海地震を起こしているプレートだ。

 このため、押された本州側に皺(しわ)がよった。ハイカーや登山者が楽しんでいる丹沢山塊は、押されてできた、地球の皺なのである。

 今でも、昔の海岸線が残っている。そこだけは周りよりも平らで標高も低いから、よく目立つ。

 平らで標高も低いことは、鉄道や道を通すために大事な条件だった。こうして、今は国道二四六号線になっている道も、丹那トンネルが開通するまで唯一の東海道線だったJRの御殿場線も、東名高速道路も、この昔の海岸線に作られることになったのである。

 じつは、御殿場線はもちろん、東名高速道路が造られたときにさえ、ここが大昔の海岸線だったことは知られていなかった。

 いや、私はここに道路や鉄道を造ったことを非難しようとしているのではない。私たち人類は、地球の営みの上に暮らしていることを忘れてはいけない、というのが私の言いたいことなのである。

 地球はその創世以来、二度と同じ姿に戻らないまま、つねに、その姿を変え続けてきているのだ。


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